魔法少女まどか☆マギカ オリジナルサウンドトラックCD Vol.1を聞いた
BD/DVD初回版の特典。
全13曲で、総時間は27分40秒。結構短い。
トラックリストは以下の通り。
1, Sis puella magica!
2, Salve, terrae magicae
3, Gradus prohibitus
4, Credens justitiam
5, Clementia
6, Desiderium
7, Conturbatio
8, Postmeridie
9, Puella in somnio
10, Umbra nigra
11, Terror adhaerens
12, Scaena felix
13, Pugna cum maga
質については上々。少なくとも、聞きながら思わずニヤニヤしてしまう程度には完成度が高い。
お気に入りは「Credens justitiam」。マミさんの変身シーンなどでBGMとして使われている曲だ。アニメを見た人には細かい説明は不要だろう。
ショップ特典のない値引きされた状態でも5千円前後と、サントラを目当てに買うには少々勇気のいる価格帯だが、個人的にはそれでも惜しくはなかった。そう言ってしまえるくらいには良質な特典だ。
まどマギが好きで梶浦由記氏のファンであるなら、買って損することはまずないだろう。迷っているなら、とりあえず手に取ってみることをおすすめしたい。
公式サイトの情報を見るかぎりでは、vol.2がどの巻に付属するかはまだ決まっていないようだ。
推定曲数から考えると、3枚に分けるということはおそらくしないだろうから、最終的にはvol.1と2の2枚構成になるのではないだろうか。
順当に考えるなら、4巻か5巻あたりに特典として付くものと思われる。
何にせよ、発売が楽しみである。
![魔法少女まどか☆マギカ 2 【完全生産限定版】 [Blu-ray]](http://rcm-images.amazon.com/images/P/B004L7A7WO.09.LZZZZZZZ.jpg)
魔法少女まどか☆マギカ 2 【完全生産限定版】 [Blu-ray]
全13曲で、総時間は27分40秒。結構短い。
トラックリストは以下の通り。
1, Sis puella magica!
2, Salve, terrae magicae
3, Gradus prohibitus
4, Credens justitiam
5, Clementia
6, Desiderium
7, Conturbatio
8, Postmeridie
9, Puella in somnio
10, Umbra nigra
11, Terror adhaerens
12, Scaena felix
13, Pugna cum maga
質については上々。少なくとも、聞きながら思わずニヤニヤしてしまう程度には完成度が高い。
お気に入りは「Credens justitiam」。マミさんの変身シーンなどでBGMとして使われている曲だ。アニメを見た人には細かい説明は不要だろう。
ショップ特典のない値引きされた状態でも5千円前後と、サントラを目当てに買うには少々勇気のいる価格帯だが、個人的にはそれでも惜しくはなかった。そう言ってしまえるくらいには良質な特典だ。
まどマギが好きで梶浦由記氏のファンであるなら、買って損することはまずないだろう。迷っているなら、とりあえず手に取ってみることをおすすめしたい。
公式サイトの情報を見るかぎりでは、vol.2がどの巻に付属するかはまだ決まっていないようだ。
推定曲数から考えると、3枚に分けるということはおそらくしないだろうから、最終的にはvol.1と2の2枚構成になるのではないだろうか。
順当に考えるなら、4巻か5巻あたりに特典として付くものと思われる。
何にせよ、発売が楽しみである。
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テーマ : 魔法少女まどか★マギカ
ジャンル : アニメ・コミック
魔法少女まどか☆マギカの11話と12話を見た
魔法少女としての素質は、背負い込んだ因果の量によって決まる。
ごく普通の一般人として半生を送ってきたまどかが、なぜ魔法少女としてのきわめて高い適性──膨大な量の因果を抱え込んでいるのかということは、キュゥべえにとってさえもこれまでは謎だった。
その答えが、今回で明らかとなる。
原因は、まどかを助けようとするほむらの行動それ自体。
つまり、多数の平行世界を渡り歩き、まどかに干渉してきた暁美ほむらの存在そのものが、数多の因果をまどかに結実させ、彼女の潜在能力を高めさせる要因と化していたわけだ。
普通に考えて、因果の糸が世界の垣根を越えるなんてことはありえない。もしあるとするなら、たとえば水が低きに流れるような、投げたボールが地に落ちるような、そういう普遍的であるべきはずの因果律が混線して、世界が滅茶苦茶になってしまうからだ。
だからまどかに束ねられてしまった因果というのは、そんな常識さえ凌駕する超常的な規模の現象ということになる。
守りたいと願った少女のことを、守ろうとする自分自身が怪物にしてしまっている。
この事実を知らされたほむらの胸中は、いかばかりであっただろうか。
そして、それでも彼女は退けない。
退くことが許されない。
墓石のように並べ立てられた無反動砲。
雨のように降らされる榴弾。
湯水のように使われる爆弾。
容赦なく撃ち放たれるミサイル。
地を埋めつくす地雷。
ありとあらゆる火器を投じた言葉通りの総力戦。
これが彼女の答えであり、決意の固さでもある。
だが、ワルプルギスの夜はそのさらに上をいく。
自然の驚異に対して人類のなすすべがないように、強大無比な魔女には魔法少女でさえも対抗することは難しいものらしい。
万策は尽き、繰り返しがもたらす結果も知ってしまった。
今のほむらにとっては、過去へ戻ることも躊躇いを抱く選択だ。
行きも地獄、帰りも地獄。
そうと気付いてしまった以上、目の前には絶望しか残らない。
絶望に呑まれた魔法少女の行く末は、今となっては言うまでもなく。
そんな窮地を、彼女が救う。
かつて、始まりの頃にそうだったように。
ほむらを守り、家族を守り、街を守って単身死地へと赴いたように。
彼女が、まどかが、「大丈夫だよ」と手を差し伸べる。
それは、ほむらにとっては決して選ばれてはならない選択だ。
そうなることを避けるために、ほむらのこれまでの戦いはあったからだ。
ゆえにその選択は、そうしたほむらの願いを知った上で、選ばれたものということ。
魔法少女の実態を知った上で、インキュベーターの目的を知った上で、過去の魔法少女たちの祈りと絶望を知った上で、それでもなお叶えたいと選ばれた願いなのだ。
まどかの願いは、「すべての魔女を生まれる前に消し去ること」。
すべての宇宙、過去と未来のすべての魔女を、まどか自身の手によって。
因果というのは連綿と続く大河のようなものだから、過去にまでさかのぼってすべての魔女を消し去るとなれば、それは宇宙の再構成に等しい大規模な干渉となる。
川を大きく移動させようとするなら、その源流までさかのぼって手を加えなければならないのと同じだ。
そして、消しようのない因果の収束を打ち消すために、最後に行き着く果ては宇宙の再構成そのものだ。
宇宙を、その始まりよりもさらに前、法則を決めるパラメータ生成の段階から構成し直し、因果の収束する原因を根本から消し去るのである。
つまりまどかの願いは、宇宙を記述する物理法則になることだ。
願いを叶えた彼女は、宇宙の法則そのものだから、過去も未来も関係ない。
願いを叶えたあとの自分自身の姿すらも、その宇宙に生きる以上は例外とは見なされない。
言わずもがな、法則とは絶対のものであり、絶対とは例外がないということだからだ。
それほどの願いを叶える力があるのなら、なぜキュゥべえたちを何とかしないのか。
そんな風に思う人も、おそらくはいるだろう。
だが忘れてはならないのは、彼らインキュベーターが有史以前より人類に接触してきた歴史だ。
たとえば彼らとの接触を、過去へとさかのぼってなかったことにすることも、ひょっとするとまどかにはできたかもしれない。
しかしそれをしてしまうと、以後に辿る人類の歴史は、我々が知るのとはまるで違ったものになってしまう。インキュベーターの干渉は、歴史に名を残す偉人の輩出に直結しているからだ。
そうして生じた世界では、決して低くない確率で、ほむらも、まどか自身も生まれてこない。
そして、地球にいる人類が無事であるというだけで、魔法少女の絶望を根本から消し去ることにはならないのだ。
まどかたちの生きるあの時点で、インキュベーターを滅ぼすということもできたかもしれない。
だがその場合も、過去に生きた魔法少女たちの悲しみを消し去ることはできないし、魔女が死に絶えるまで、つまりはすべての魔法少女が死滅するまで絶望の連鎖は続くことになる。
さらに言えば、魔法少女が魔女になり、魔女が使い魔を産んで数を増やすことを考えると、魔法少女がいなくなったあとも、魔女だけは残る可能性が高い。
残った彼女たちと人類と、どちらが長く存続していけるのかは、容易に答えの出せない問題である。
だから、まどかの願いは、無為なものではない。
価値のないものでは決してない。
ああした状況下での、おそらくベストな選択が、まどかのあの願いなのだ。
こうした経緯をもって、「魔法少女が魔女と化す直前に魂が浄化され消滅する」という法則が新たに加えられ、世界は一から生まれ変わった。
代償は、とある少女の存在。
それから歩んできた人生。
魔法少女と魔女とによってこれまで生み出された、そしてこれから生み出されるはずだった数多の絶望と比較すれば、もはや比べることすらバカらしいほどの格安ぶりだ。
客観的に見れば、これ以上はないほどすばらしい大団円と言えるだろう。
ただひとりの少女にとって以外は。
ほむらだけは、まどかのことを忘れなかった。
彼女の託したリボンを持ち続け、彼女の存在を背負い続けた。
そして再構成された世界においても、身を戦いのなかに置いている。
おそらくは、「魔法少女は夢と希望を叶えるもの」という、まどかの言葉を信じて。
魔法少女の行き着く果て、ソウルジェムが穢れきるそのときまで彼女は戦い続けるのだろう。
なぜなら、そのときこそが法則によって定められた再会の瞬間。
「いつかまた、もう一度ほむらちゃんとも会えるから」。
まどかがそう語った約束のときだからである。
といったところで幕引き。
賛否諸説あるオチだとは思う。
個人的には納得のいく締めくくりだった。
文句はないし、見続けてきたことへの後悔もない。
ただ「おもしろかった」と。その一言だけが今はある。
全体を通しての総評は、機会があればまた後日にでも。
ごく普通の一般人として半生を送ってきたまどかが、なぜ魔法少女としてのきわめて高い適性──膨大な量の因果を抱え込んでいるのかということは、キュゥべえにとってさえもこれまでは謎だった。
その答えが、今回で明らかとなる。
原因は、まどかを助けようとするほむらの行動それ自体。
つまり、多数の平行世界を渡り歩き、まどかに干渉してきた暁美ほむらの存在そのものが、数多の因果をまどかに結実させ、彼女の潜在能力を高めさせる要因と化していたわけだ。
普通に考えて、因果の糸が世界の垣根を越えるなんてことはありえない。もしあるとするなら、たとえば水が低きに流れるような、投げたボールが地に落ちるような、そういう普遍的であるべきはずの因果律が混線して、世界が滅茶苦茶になってしまうからだ。
だからまどかに束ねられてしまった因果というのは、そんな常識さえ凌駕する超常的な規模の現象ということになる。
守りたいと願った少女のことを、守ろうとする自分自身が怪物にしてしまっている。
この事実を知らされたほむらの胸中は、いかばかりであっただろうか。
そして、それでも彼女は退けない。
退くことが許されない。
墓石のように並べ立てられた無反動砲。
雨のように降らされる榴弾。
湯水のように使われる爆弾。
容赦なく撃ち放たれるミサイル。
地を埋めつくす地雷。
ありとあらゆる火器を投じた言葉通りの総力戦。
これが彼女の答えであり、決意の固さでもある。
だが、ワルプルギスの夜はそのさらに上をいく。
自然の驚異に対して人類のなすすべがないように、強大無比な魔女には魔法少女でさえも対抗することは難しいものらしい。
万策は尽き、繰り返しがもたらす結果も知ってしまった。
今のほむらにとっては、過去へ戻ることも躊躇いを抱く選択だ。
行きも地獄、帰りも地獄。
そうと気付いてしまった以上、目の前には絶望しか残らない。
絶望に呑まれた魔法少女の行く末は、今となっては言うまでもなく。
そんな窮地を、彼女が救う。
かつて、始まりの頃にそうだったように。
ほむらを守り、家族を守り、街を守って単身死地へと赴いたように。
彼女が、まどかが、「大丈夫だよ」と手を差し伸べる。
それは、ほむらにとっては決して選ばれてはならない選択だ。
そうなることを避けるために、ほむらのこれまでの戦いはあったからだ。
ゆえにその選択は、そうしたほむらの願いを知った上で、選ばれたものということ。
魔法少女の実態を知った上で、インキュベーターの目的を知った上で、過去の魔法少女たちの祈りと絶望を知った上で、それでもなお叶えたいと選ばれた願いなのだ。
まどかの願いは、「すべての魔女を生まれる前に消し去ること」。
すべての宇宙、過去と未来のすべての魔女を、まどか自身の手によって。
因果というのは連綿と続く大河のようなものだから、過去にまでさかのぼってすべての魔女を消し去るとなれば、それは宇宙の再構成に等しい大規模な干渉となる。
川を大きく移動させようとするなら、その源流までさかのぼって手を加えなければならないのと同じだ。
そして、消しようのない因果の収束を打ち消すために、最後に行き着く果ては宇宙の再構成そのものだ。
宇宙を、その始まりよりもさらに前、法則を決めるパラメータ生成の段階から構成し直し、因果の収束する原因を根本から消し去るのである。
つまりまどかの願いは、宇宙を記述する物理法則になることだ。
願いを叶えた彼女は、宇宙の法則そのものだから、過去も未来も関係ない。
願いを叶えたあとの自分自身の姿すらも、その宇宙に生きる以上は例外とは見なされない。
言わずもがな、法則とは絶対のものであり、絶対とは例外がないということだからだ。
それほどの願いを叶える力があるのなら、なぜキュゥべえたちを何とかしないのか。
そんな風に思う人も、おそらくはいるだろう。
だが忘れてはならないのは、彼らインキュベーターが有史以前より人類に接触してきた歴史だ。
たとえば彼らとの接触を、過去へとさかのぼってなかったことにすることも、ひょっとするとまどかにはできたかもしれない。
しかしそれをしてしまうと、以後に辿る人類の歴史は、我々が知るのとはまるで違ったものになってしまう。インキュベーターの干渉は、歴史に名を残す偉人の輩出に直結しているからだ。
そうして生じた世界では、決して低くない確率で、ほむらも、まどか自身も生まれてこない。
そして、地球にいる人類が無事であるというだけで、魔法少女の絶望を根本から消し去ることにはならないのだ。
まどかたちの生きるあの時点で、インキュベーターを滅ぼすということもできたかもしれない。
だがその場合も、過去に生きた魔法少女たちの悲しみを消し去ることはできないし、魔女が死に絶えるまで、つまりはすべての魔法少女が死滅するまで絶望の連鎖は続くことになる。
さらに言えば、魔法少女が魔女になり、魔女が使い魔を産んで数を増やすことを考えると、魔法少女がいなくなったあとも、魔女だけは残る可能性が高い。
残った彼女たちと人類と、どちらが長く存続していけるのかは、容易に答えの出せない問題である。
だから、まどかの願いは、無為なものではない。
価値のないものでは決してない。
ああした状況下での、おそらくベストな選択が、まどかのあの願いなのだ。
こうした経緯をもって、「魔法少女が魔女と化す直前に魂が浄化され消滅する」という法則が新たに加えられ、世界は一から生まれ変わった。
代償は、とある少女の存在。
それから歩んできた人生。
魔法少女と魔女とによってこれまで生み出された、そしてこれから生み出されるはずだった数多の絶望と比較すれば、もはや比べることすらバカらしいほどの格安ぶりだ。
客観的に見れば、これ以上はないほどすばらしい大団円と言えるだろう。
ただひとりの少女にとって以外は。
ほむらだけは、まどかのことを忘れなかった。
彼女の託したリボンを持ち続け、彼女の存在を背負い続けた。
そして再構成された世界においても、身を戦いのなかに置いている。
おそらくは、「魔法少女は夢と希望を叶えるもの」という、まどかの言葉を信じて。
魔法少女の行き着く果て、ソウルジェムが穢れきるそのときまで彼女は戦い続けるのだろう。
なぜなら、そのときこそが法則によって定められた再会の瞬間。
「いつかまた、もう一度ほむらちゃんとも会えるから」。
まどかがそう語った約束のときだからである。
といったところで幕引き。
賛否諸説あるオチだとは思う。
個人的には納得のいく締めくくりだった。
文句はないし、見続けてきたことへの後悔もない。
ただ「おもしろかった」と。その一言だけが今はある。
全体を通しての総評は、機会があればまた後日にでも。
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テーマ : 魔法少女まどか★マギカ
ジャンル : アニメ・コミック
魔法少女まどか☆マギカの10話を見た
別の時間軸のまどかは、性格が少し違う。
態度や仕草から、自信が見てとれる。
これは彼女が、欲しかったものを手に入れているからなのだろう。
「なりたい自分」になれているから、「魔法少女としての力」を持っているから、それが内面の自信を表出させているわけだ。
このあたりの表現については、声を当てている悠木碧さんの手腕もあると思う。
声というなら、ほむら役の斎藤千和さんも輝いていた。
魔女の存在を知り、それと戦う魔法少女を知って、最後にはその真実を知る。
その過程で起こる意識の変換を、声の演技によって十全に表現して見せている。
まどかの請いに応じてトリガーを引く瞬間の、あの耳に突き刺さるかのような慟哭は、誰にでもできる演技ではない。
この10話が抱える絶望に、もういいよと思うほどの説得力があるのは、絵による描写に勝るとも劣らない、声の演技の妙があったからだろう。
その演技に負けないほどに、作画もまた優れていた。
もともとそんなに動くアニメではなかったけれど、今回ばかりは力の入れようが違っていた。
作っている人が、“ここがキモだ”ということを、よく理解しているのだろう。
どこでどれだけ動かそうとも、ここで動かせなきゃ意味がない。そんな思いが透けて見えるかのような、気合いの入った良い作画だった。
そして、その作画で見せられたエピソードは、悲劇としか言い様のないものだった。
延々と続く試行錯誤、トライアンドエラーの繰り返しは、ループものの鉄則であり、真骨頂と言ってもいい。
過去をやり直すことのできる手段を、時を渡る力を手に入れたなら、逃れられない結末を繰り返すために、何度だろうと繰り返すことになる。
目的が達成されるか、あるいは主人公が諦めるまで、延々と。
その過程には、基本的に挫折しかない。
過去をやり直したいという思いの前提には、逃れようのない絶望があるからだ。
逃れられないから何度でも繰り返すことになり、その過程は、凄惨な悲劇という以外に表現しようのないものになってしまう。
爆弾を作り、銃器を入手し、体を魔力で強化して、時間操作というこれ以上ないほど強力な力を身につけても、それでもなおほむらの目的は達成されない。
魔女の力は強大で、キュゥべえの手際は鮮やかで、結末はいつも絶対的な行き止まりだ。
今の時間軸でも、それは同様。
違う点があるとすれば、まどかが魔法少女の真実を、契約する前に知っていることだ。
けれど、彼女は魔法少女が戦って死ぬ存在であること、既に人間をやめていることを知って、なお身を捧げようとするほどのお人好しだ。
魔法少女が、魔女になる途上に過ぎない存在だと知った今でも、必要とあらば、契約してしまう可能性は十分にある。
さらに言えば、そうするに足る動機もあるのだ。
ワルプルギスの夜という、最悪の魔女の襲来。
契機とするには、絶好のシチュエーションである。
そして、違う点はもうひとつある。
キュゥべえが、ほむらの正体に気付いていることだ。
このことは、ある致命的な結末の可能性に結び付いている。
キュゥべえなら、状況からほむらの目的にまで察しが及んだとしても、おかしくはない。
その場合、ほむらの行動は、キュゥべえにとって邪魔以外の何物でもないはずだ。仮にまどかを契約させたとしても、ほむらが生きていれば、その前に戻って再びやり直せるからである。
となれば、不安分子を消すために、“そうなる”よう仕向けることは、理に適った選択と言える。
ほむらの性格からすれば、今度はどんな手段を使ってでも、それこそ差し違えてでも、ワルプルギスの夜をひとりで倒そうとするだろう。
その結果として自身が死ぬことになるとしても、まどかを契約させずに済むのなら、彼女はきっとためらわない。
それが世界の滅亡を防ぐことにも繋がるのだ。命を賭ける対価としては、十分に思える。
ほむらの目的と、キュゥべえの事情が、ここで奇妙な重なりを見せているのだ。
やり直しのキーパーソンであるほむらが死ぬことは、普通に考えるとあり得ない展開だけれど、このお膳立ての整い方を見ると、絶対とは言えなくなってくる。
もとより誰が死んでもおかしくない話だ。そうである以上、普通に考えるとあり得ない展開が起こったとしても、不思議なことはまったくない。
つまり、最低に最悪な状況と思われる今よりも、さらにもう一段、下があるかもしれないということだ。
所詮は憶測のひとつに過ぎないし、信憑性はないに等しい。
そもそも、やり直すことがキュゥべえにとって不都合であるのならば、彼がほむらの願いを叶えることもなかっただろう。
すべては未知数。先のことは、まるで予測できない。
けれど、覚悟だけは決めておいた方がいいのかもしれない。
態度や仕草から、自信が見てとれる。
これは彼女が、欲しかったものを手に入れているからなのだろう。
「なりたい自分」になれているから、「魔法少女としての力」を持っているから、それが内面の自信を表出させているわけだ。
このあたりの表現については、声を当てている悠木碧さんの手腕もあると思う。
声というなら、ほむら役の斎藤千和さんも輝いていた。
魔女の存在を知り、それと戦う魔法少女を知って、最後にはその真実を知る。
その過程で起こる意識の変換を、声の演技によって十全に表現して見せている。
まどかの請いに応じてトリガーを引く瞬間の、あの耳に突き刺さるかのような慟哭は、誰にでもできる演技ではない。
この10話が抱える絶望に、もういいよと思うほどの説得力があるのは、絵による描写に勝るとも劣らない、声の演技の妙があったからだろう。
その演技に負けないほどに、作画もまた優れていた。
もともとそんなに動くアニメではなかったけれど、今回ばかりは力の入れようが違っていた。
作っている人が、“ここがキモだ”ということを、よく理解しているのだろう。
どこでどれだけ動かそうとも、ここで動かせなきゃ意味がない。そんな思いが透けて見えるかのような、気合いの入った良い作画だった。
そして、その作画で見せられたエピソードは、悲劇としか言い様のないものだった。
延々と続く試行錯誤、トライアンドエラーの繰り返しは、ループものの鉄則であり、真骨頂と言ってもいい。
過去をやり直すことのできる手段を、時を渡る力を手に入れたなら、逃れられない結末を繰り返すために、何度だろうと繰り返すことになる。
目的が達成されるか、あるいは主人公が諦めるまで、延々と。
その過程には、基本的に挫折しかない。
過去をやり直したいという思いの前提には、逃れようのない絶望があるからだ。
逃れられないから何度でも繰り返すことになり、その過程は、凄惨な悲劇という以外に表現しようのないものになってしまう。
爆弾を作り、銃器を入手し、体を魔力で強化して、時間操作というこれ以上ないほど強力な力を身につけても、それでもなおほむらの目的は達成されない。
魔女の力は強大で、キュゥべえの手際は鮮やかで、結末はいつも絶対的な行き止まりだ。
今の時間軸でも、それは同様。
違う点があるとすれば、まどかが魔法少女の真実を、契約する前に知っていることだ。
けれど、彼女は魔法少女が戦って死ぬ存在であること、既に人間をやめていることを知って、なお身を捧げようとするほどのお人好しだ。
魔法少女が、魔女になる途上に過ぎない存在だと知った今でも、必要とあらば、契約してしまう可能性は十分にある。
さらに言えば、そうするに足る動機もあるのだ。
ワルプルギスの夜という、最悪の魔女の襲来。
契機とするには、絶好のシチュエーションである。
そして、違う点はもうひとつある。
キュゥべえが、ほむらの正体に気付いていることだ。
このことは、ある致命的な結末の可能性に結び付いている。
キュゥべえなら、状況からほむらの目的にまで察しが及んだとしても、おかしくはない。
その場合、ほむらの行動は、キュゥべえにとって邪魔以外の何物でもないはずだ。仮にまどかを契約させたとしても、ほむらが生きていれば、その前に戻って再びやり直せるからである。
となれば、不安分子を消すために、“そうなる”よう仕向けることは、理に適った選択と言える。
ほむらの性格からすれば、今度はどんな手段を使ってでも、それこそ差し違えてでも、ワルプルギスの夜をひとりで倒そうとするだろう。
その結果として自身が死ぬことになるとしても、まどかを契約させずに済むのなら、彼女はきっとためらわない。
それが世界の滅亡を防ぐことにも繋がるのだ。命を賭ける対価としては、十分に思える。
ほむらの目的と、キュゥべえの事情が、ここで奇妙な重なりを見せているのだ。
やり直しのキーパーソンであるほむらが死ぬことは、普通に考えるとあり得ない展開だけれど、このお膳立ての整い方を見ると、絶対とは言えなくなってくる。
もとより誰が死んでもおかしくない話だ。そうである以上、普通に考えるとあり得ない展開が起こったとしても、不思議なことはまったくない。
つまり、最低に最悪な状況と思われる今よりも、さらにもう一段、下があるかもしれないということだ。
所詮は憶測のひとつに過ぎないし、信憑性はないに等しい。
そもそも、やり直すことがキュゥべえにとって不都合であるのならば、彼がほむらの願いを叶えることもなかっただろう。
すべては未知数。先のことは、まるで予測できない。
けれど、覚悟だけは決めておいた方がいいのかもしれない。
![魔法少女まどか☆マギカ 2 【完全生産限定版】 [DVD]](http://rcm-images.amazon.com/images/P/B004L7A7Q0.09.LZZZZZZZ.jpg)
テーマ : 魔法少女まどか★マギカ
ジャンル : アニメ・コミック
魔法少女まどか☆マギカの9話を見た
まさか魔法少女もののアニメを見ていて、エントロピーなんて単語を聞くことになるとは思わなかった…
SF作品のなかには、核融合や対消滅、磁気単極子などにも劣らない優れたエネルギー源として、知的生命体の精神や、その活動が挙げられているものがまれにある。
だから、宇宙の熱的死を遅らせるための、莫大なエネルギーを生み出す媒体として、人の心を利用するという発想は、そう突飛なものではないと思う。
ただ、それを魔法少女ものとくっつけた作品は、おそらくこれまでに例がない。
しかも、人類が太陽系外にまで版図を広げたような遠未来ではなく、月へ行くだけでも大変な労力を必要とする現代が舞台だ。「いつかは冷えきっちゃう宇宙だし、今のうちから寿命延ばしておこうぜ!」なんてことを理由として挙げられても、同意などそうそうできるわけがない。
そんなことより、まずキャラの安否の方が遥かに重い問題だし、それ以前に、視点が遠大すぎてピンと来ないのだ。想像も及ばないほど遠い未来のことを、今のうちから心配させようとするのは、火星にいるかもわからない生物のことを案じて環境改善に尽力しろと主張するくらいに無理がある。
いささか突飛に過ぎるきらいはあるだろう。
でも、おもしろい。
キュゥべえの視点の遠大さには多くの人が気付いていただろうけど、その正体や目的にまで思慮が及んだ人は、おそらく殆どいないだろう。
誰が想像するだろうか。魔法少女の使い魔的なキャラクターが実は異星人で、熱力学に喧嘩を売るため魔法少女を生み出しているなどと。
「ルール」に従ったうえで、なおそれだけの無茶ができる以上、キュゥべえたちの文明は、地球よりもずっと進んでいると考えられる。
銀河系の端にある地球という星までやってきて、原住民に奇跡としか言いようのない現象を見せている時点で、それは疑う余地のないことだ。
元より、魔法少女と魔女のシステムも彼らの考案したものだろうし、ほむらへの反応から見るに、時間への干渉を現実的なものとして考えられるだけの技術も持っているようだ。でなければ、「違う時間軸の人間」などという存在を、ああも容易く受け入れられるわけがないからだ。
これだけの隔たりがあるならば、キュゥべえたちが感情と呼ばれるものを備えていないことを差し引いても、神が、あるいは悪魔が人を見るかのように遠大な視点となってしまうのは、当然のことだったと言えるだろう。
彼らには感情がないから、判断基準はすべて計算づくとなる。
「損か得か」。それがすべてだ。
地球人を見下しているわけではなく、また存在に価値を認めていないわけでもなくて、「そうすることが皆にとって得だから」という発想だ。
要するに、キュゥべえたちにとっては個々の犠牲など些末事で、全体として得ている利益がそれに勝っていれば、何の問題もない。
だからその意思のもとに行動し、まどかたちはそれに巻き込まれたわけである。
まどかたちには到底理解できない理屈だが、個を尊重しないキュゥべえたちには、その拒絶こそが理解できない。
そして彼らには、自分たちの主張を押し通せるだけの力がある。
相手が悪すぎる、と思う。
勝つことは、おそらくできないだろう。
この場合の勝利とは、魔法少女のシステムを壊すことになるだろうけれど、そうするにはキュゥべえたちを倒し、または説得して、地球から手を引かせなければならない。
それができるかといえば、難しいと言わざるを得ない。力に差がありすぎるからだ。
唯一の希望は、キュゥべえをして測定不能とまで言わしめる力を持つまどかの存在だが、彼女が契約することは、ほむらにとってのゲームオーバーを意味する。ゆえに、作中で選択されることはないはずだ。
杏子が夭折した今、ほむらはワルプルギスの夜に訪れるという強大な魔女を、たったひとりで迎え撃ち、撃退しなくてはならなくなった。つまり、1話冒頭に至るためのお膳立てが整ったかたちになる。
まさに絶望的だ。救いのある要素がひとつもない。
普通のアニメなら、ここで奇跡的な展開を期待することもできるけれど、忘れてはいけないのは、本作の脚本家の名前だ。
虚淵氏が書いている以上、そのように甘い展開になることは、まずないと思った方がいいだろう。
物語は流れるままに流れ、落ちるべきところへ落ちる。それが氏のシナリオの特徴だからだ。物理法則に反して“浮き上がる”なんてことは、きっと起こらない。
だから、絶望的だ。
どのように物語が進んだとしても、痛みを回避することができそうにない。
せめて救いのある結末を。今願えるのは、本当にそれだけだ。
SF作品のなかには、核融合や対消滅、磁気単極子などにも劣らない優れたエネルギー源として、知的生命体の精神や、その活動が挙げられているものがまれにある。
だから、宇宙の熱的死を遅らせるための、莫大なエネルギーを生み出す媒体として、人の心を利用するという発想は、そう突飛なものではないと思う。
ただ、それを魔法少女ものとくっつけた作品は、おそらくこれまでに例がない。
しかも、人類が太陽系外にまで版図を広げたような遠未来ではなく、月へ行くだけでも大変な労力を必要とする現代が舞台だ。「いつかは冷えきっちゃう宇宙だし、今のうちから寿命延ばしておこうぜ!」なんてことを理由として挙げられても、同意などそうそうできるわけがない。
そんなことより、まずキャラの安否の方が遥かに重い問題だし、それ以前に、視点が遠大すぎてピンと来ないのだ。想像も及ばないほど遠い未来のことを、今のうちから心配させようとするのは、火星にいるかもわからない生物のことを案じて環境改善に尽力しろと主張するくらいに無理がある。
いささか突飛に過ぎるきらいはあるだろう。
でも、おもしろい。
キュゥべえの視点の遠大さには多くの人が気付いていただろうけど、その正体や目的にまで思慮が及んだ人は、おそらく殆どいないだろう。
誰が想像するだろうか。魔法少女の使い魔的なキャラクターが実は異星人で、熱力学に喧嘩を売るため魔法少女を生み出しているなどと。
「ルール」に従ったうえで、なおそれだけの無茶ができる以上、キュゥべえたちの文明は、地球よりもずっと進んでいると考えられる。
銀河系の端にある地球という星までやってきて、原住民に奇跡としか言いようのない現象を見せている時点で、それは疑う余地のないことだ。
元より、魔法少女と魔女のシステムも彼らの考案したものだろうし、ほむらへの反応から見るに、時間への干渉を現実的なものとして考えられるだけの技術も持っているようだ。でなければ、「違う時間軸の人間」などという存在を、ああも容易く受け入れられるわけがないからだ。
これだけの隔たりがあるならば、キュゥべえたちが感情と呼ばれるものを備えていないことを差し引いても、神が、あるいは悪魔が人を見るかのように遠大な視点となってしまうのは、当然のことだったと言えるだろう。
彼らには感情がないから、判断基準はすべて計算づくとなる。
「損か得か」。それがすべてだ。
地球人を見下しているわけではなく、また存在に価値を認めていないわけでもなくて、「そうすることが皆にとって得だから」という発想だ。
要するに、キュゥべえたちにとっては個々の犠牲など些末事で、全体として得ている利益がそれに勝っていれば、何の問題もない。
だからその意思のもとに行動し、まどかたちはそれに巻き込まれたわけである。
まどかたちには到底理解できない理屈だが、個を尊重しないキュゥべえたちには、その拒絶こそが理解できない。
そして彼らには、自分たちの主張を押し通せるだけの力がある。
相手が悪すぎる、と思う。
勝つことは、おそらくできないだろう。
この場合の勝利とは、魔法少女のシステムを壊すことになるだろうけれど、そうするにはキュゥべえたちを倒し、または説得して、地球から手を引かせなければならない。
それができるかといえば、難しいと言わざるを得ない。力に差がありすぎるからだ。
唯一の希望は、キュゥべえをして測定不能とまで言わしめる力を持つまどかの存在だが、彼女が契約することは、ほむらにとってのゲームオーバーを意味する。ゆえに、作中で選択されることはないはずだ。
杏子が夭折した今、ほむらはワルプルギスの夜に訪れるという強大な魔女を、たったひとりで迎え撃ち、撃退しなくてはならなくなった。つまり、1話冒頭に至るためのお膳立てが整ったかたちになる。
まさに絶望的だ。救いのある要素がひとつもない。
普通のアニメなら、ここで奇跡的な展開を期待することもできるけれど、忘れてはいけないのは、本作の脚本家の名前だ。
虚淵氏が書いている以上、そのように甘い展開になることは、まずないと思った方がいいだろう。
物語は流れるままに流れ、落ちるべきところへ落ちる。それが氏のシナリオの特徴だからだ。物理法則に反して“浮き上がる”なんてことは、きっと起こらない。
だから、絶望的だ。
どのように物語が進んだとしても、痛みを回避することができそうにない。
せめて救いのある結末を。今願えるのは、本当にそれだけだ。
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ジャンル : アニメ・コミック
魔法少女まどか☆マギカの8話を見た
ソウルジェムが、魂そのものを顕在化させたものであるのならば、それが濁ることはすなわち、その人間の本質が濁るということでもある。
積み重なった汚濁は、人格までもねじ曲げていく。
その果てにあるものが何であるのか。それがついに、今回で描写された。
「インキュベーター」という呼び名から察せられるキュゥべえの正体は、孵化器というその名が現す通りに、「少女を女へと孵化させる存在」なのだろう。
「この国では、成長途中の女性のことを、少女って呼ぶんだろう? だったら、やがて魔女になる君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね」
そんな、彼自身の言葉通りに。
彼が望んでいるのは、魔法少女としての契約ではない。
「やがて魔女になる存在」としての契約だ。
つまりキュゥべえは、最初からなにひとつ嘘を言っていなかった。
自らの「魔女を生み出す」という目的に、ひたすら忠実だったわけである。
初期から予想されていたことではある。
誰しも考えのうちには入れていただろう。
言うなれば予定調和。驚くには値しないはず。
でもそれでも、思っていたよりはるかに重い衝撃だった。
こういう展開にだけはならないでほしいと願っていたせいかもしれない。
そういう視聴者にとっての「嫌な展開」を、臆さず選んで形にしてくるあたりに、このアニメの真髄があるように思う。
予想していても、なお心を抉ってくる。
ゆえに、覚悟を決めていても無意味だ。なぜなら、もともと狙っているのが防御の弱い部分だからである。
この、崩れていく砂の城をどうすることもできずに眺めているかのような虚脱感は、以前にも味わった覚えがある。
本作の脚本家が書いた小説や、シナリオを手掛けたゲームを遊んだときのことだ。
このアニメでは、脚本家のあげたシナリオをそのまま形にしたとも聞いているけれど、今更ながらそれを実感できた。
これは、この容赦のなさは、紛う事無き虚淵氏のシナリオだ。
ほむらの能力が明らかになったり、どこから来たかがある程度はっきりしたり、初めての感情の吐露があったりと、ほかにも見どころは数多かった。
けれど、前述の一点が根こそぎ持っていってしまった感がある。
この先もきっと、「嫌な展開」を躊躇なく選んでくるだろう。
覚悟することにさしたる意味がないとわかっていても、構えずにはいられない…
積み重なった汚濁は、人格までもねじ曲げていく。
その果てにあるものが何であるのか。それがついに、今回で描写された。
「インキュベーター」という呼び名から察せられるキュゥべえの正体は、孵化器というその名が現す通りに、「少女を女へと孵化させる存在」なのだろう。
「この国では、成長途中の女性のことを、少女って呼ぶんだろう? だったら、やがて魔女になる君たちのことは、魔法少女と呼ぶべきだよね」
そんな、彼自身の言葉通りに。
彼が望んでいるのは、魔法少女としての契約ではない。
「やがて魔女になる存在」としての契約だ。
つまりキュゥべえは、最初からなにひとつ嘘を言っていなかった。
自らの「魔女を生み出す」という目的に、ひたすら忠実だったわけである。
初期から予想されていたことではある。
誰しも考えのうちには入れていただろう。
言うなれば予定調和。驚くには値しないはず。
でもそれでも、思っていたよりはるかに重い衝撃だった。
こういう展開にだけはならないでほしいと願っていたせいかもしれない。
そういう視聴者にとっての「嫌な展開」を、臆さず選んで形にしてくるあたりに、このアニメの真髄があるように思う。
予想していても、なお心を抉ってくる。
ゆえに、覚悟を決めていても無意味だ。なぜなら、もともと狙っているのが防御の弱い部分だからである。
この、崩れていく砂の城をどうすることもできずに眺めているかのような虚脱感は、以前にも味わった覚えがある。
本作の脚本家が書いた小説や、シナリオを手掛けたゲームを遊んだときのことだ。
このアニメでは、脚本家のあげたシナリオをそのまま形にしたとも聞いているけれど、今更ながらそれを実感できた。
これは、この容赦のなさは、紛う事無き虚淵氏のシナリオだ。
ほむらの能力が明らかになったり、どこから来たかがある程度はっきりしたり、初めての感情の吐露があったりと、ほかにも見どころは数多かった。
けれど、前述の一点が根こそぎ持っていってしまった感がある。
この先もきっと、「嫌な展開」を躊躇なく選んでくるだろう。
覚悟することにさしたる意味がないとわかっていても、構えずにはいられない…

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ジャンル : アニメ・コミック
魔法少女まどか☆マギカの7話を見た
回を追うごとに、“キュゥべえ”という存在の真実が、少しずつ浮き彫りになっていく。
「人間の価値観が通用しない生き物」なのだから、人の気持ちがわからないのは至極当然。
あるのは純然たる対価主義。奇跡は義務によって購われなければならないという透徹した意思のみ。
人でなく、生物でさえなく、もはや神か悪魔かという遠大な視点だ。
キュゥべえからすれば、世界は巨大なジオラマかなにかのように見えているのかもしれない。
だから、そんなキュゥべえと比較すれば、利己主義を掲げて傲岸に生きる人物でさえも、利他じみて見えてくる。
損得勘定にシビアな杏子でも、キュゥべえほどには機械的になれない。
彼女は彼女の言葉でもって、過去を語り、自論をならべ、失意に沈むさやかに「こだわるな」と説いてみせた。
「対価は既に払っている。だからあとは好きなようにやればいい。業を負うのも利を得るのも己次第の人生を」と。
それは一片の真理だ。
人としての生を既に捨て去ってしまっている魔法少女は、そこから前に進むことが最早できない。
できるのは、立ち止まり、奇跡の対価を支払い続けることのみだ。
ゆえに、そのなかで得られる利をとことんまで追求するという姿勢は、何ら間違ったものではない。
キュゥべえがなにも言わずにいるのも、おそらく彼にとって損になることがないからだ。
割を食うのは、犠牲にされる無辜の民のみ。
だがそもそもにして、魔法少女の力は無限ではない。グリーフシードを得られなければ、いつかは枯渇してしまうものなのだ。マミやさやかのように、しらみつぶしで対処していくスタイルでは、小さくない確率で破綻を迎えてしまうだろう。
そうなった場合に犠牲となってしまうのも、普通に生きる普通の人々だ。魔法少女を打ち倒した魔女が次に狙うのは、きっと彼らなのだから。
だから、魔女との戦いにおいて効率を追求するのは、決して間違った戦術ではない。
少数の犠牲を看過することで、より多数の犠牲を未然に防ぐ。
局所的に見れば非道によってもたらされた悲劇だが、マクロな視点から見れば英雄的な行為だ。この姿勢を非難する資格のある者など、地上にはひとりとていないだろう。
同じ、魔法少女以外には。
さやかだけは、その考え方に「否」と突きつける。
人を救うために魔法少女になった。であるならば、人を救うためにのみ魔法を使い続けるのだと。
わたしはお前たちとは違う、魔法を自分のためになんて、絶対に使わないと。
絶望的な真実を知り、失意の底に沈んで、そこからさらに追い詰められ、崖から突き落とされるようなことになっても。
なお、自分の意地を貫き通すと。
まさに“正義の味方”。
義によって生き、義によって死す。紛う事無きヒーローとしての在り方だ。
しかし、人というのはたとえ持ち前の身体を捨て去ってしまっても、それほど強くあれるものではないらしい。
苛まれ続け、傾いていく彼女は、遠からず倒れてしまうのだろう。
そして、倒れたときに、いったいなにが起こるのか。
予想は幾らかできるけれど、そうであってほしくはないと、願ってやまない。
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「人間の価値観が通用しない生き物」なのだから、人の気持ちがわからないのは至極当然。
あるのは純然たる対価主義。奇跡は義務によって購われなければならないという透徹した意思のみ。
人でなく、生物でさえなく、もはや神か悪魔かという遠大な視点だ。
キュゥべえからすれば、世界は巨大なジオラマかなにかのように見えているのかもしれない。
だから、そんなキュゥべえと比較すれば、利己主義を掲げて傲岸に生きる人物でさえも、利他じみて見えてくる。
損得勘定にシビアな杏子でも、キュゥべえほどには機械的になれない。
彼女は彼女の言葉でもって、過去を語り、自論をならべ、失意に沈むさやかに「こだわるな」と説いてみせた。
「対価は既に払っている。だからあとは好きなようにやればいい。業を負うのも利を得るのも己次第の人生を」と。
それは一片の真理だ。
人としての生を既に捨て去ってしまっている魔法少女は、そこから前に進むことが最早できない。
できるのは、立ち止まり、奇跡の対価を支払い続けることのみだ。
ゆえに、そのなかで得られる利をとことんまで追求するという姿勢は、何ら間違ったものではない。
キュゥべえがなにも言わずにいるのも、おそらく彼にとって損になることがないからだ。
割を食うのは、犠牲にされる無辜の民のみ。
だがそもそもにして、魔法少女の力は無限ではない。グリーフシードを得られなければ、いつかは枯渇してしまうものなのだ。マミやさやかのように、しらみつぶしで対処していくスタイルでは、小さくない確率で破綻を迎えてしまうだろう。
そうなった場合に犠牲となってしまうのも、普通に生きる普通の人々だ。魔法少女を打ち倒した魔女が次に狙うのは、きっと彼らなのだから。
だから、魔女との戦いにおいて効率を追求するのは、決して間違った戦術ではない。
少数の犠牲を看過することで、より多数の犠牲を未然に防ぐ。
局所的に見れば非道によってもたらされた悲劇だが、マクロな視点から見れば英雄的な行為だ。この姿勢を非難する資格のある者など、地上にはひとりとていないだろう。
同じ、魔法少女以外には。
さやかだけは、その考え方に「否」と突きつける。
人を救うために魔法少女になった。であるならば、人を救うためにのみ魔法を使い続けるのだと。
わたしはお前たちとは違う、魔法を自分のためになんて、絶対に使わないと。
絶望的な真実を知り、失意の底に沈んで、そこからさらに追い詰められ、崖から突き落とされるようなことになっても。
なお、自分の意地を貫き通すと。
まさに“正義の味方”。
義によって生き、義によって死す。紛う事無きヒーローとしての在り方だ。
しかし、人というのはたとえ持ち前の身体を捨て去ってしまっても、それほど強くあれるものではないらしい。
苛まれ続け、傾いていく彼女は、遠からず倒れてしまうのだろう。
そして、倒れたときに、いったいなにが起こるのか。
予想は幾らかできるけれど、そうであってほしくはないと、願ってやまない。
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ジャンル : アニメ・コミック
魔法少女まどか☆マギカの6話を見た
ソウルジェムから穢れを吸ったグリーフシードは、孵化して魔女となる危険性があるらしい。
ソウルジェムから吸える穢れの総量に制限があるのも、この理由があったからなのだろう。
元より「魔女の卵」と称されていたから、さもありなんといったところだ。
そして、穢れたグリーフシードはキュゥべえの餌となる。
食べられたあとのグリーフシードが、どうなるのかはわからない。
浄化されるのかもしれないし、消滅してしまうのかもしれない。
「願いを叶える」なんて力があるのだから、そのくらいのことができても不思議はない。
けれどどちらかというなら、キュゥべえが「穢れたグリーフシードを餌にできる存在」と考える方が、状況から考えると自然かもしれない。
杏子が5話で語った食物連鎖の話が、妙な不気味さを帯びてくる。
その杏子とさやかの戦いに、前回の最後で割って入ったほむらだが、どうやら彼女の持つ特性は、やはり空間もしくは時間を操作する類のものであるようだ。
1話の冒頭、3話の魔女戦、5話での乱入。
そして今回。
たとえば「ある半径内の地点AとBを入れ替える」というような能力か、もしくは短期の時間停止であると考えたなら、すべて説明がつく。
となると気になるのは、彼女が「なにを願ったか」だ。
魔法少女の持つ特性が、願いの方向性によって決まることは、5話で明言されている。
祈りの願いによって魔法少女となったさやかは、全治3ヶ月相当と見られた怪我をわずか数秒で完治させるという、桁外れの回復力を獲得するに至った。
「空間または時間を操る」という、戦闘に際してはこれ以上ないほど強力な特性を有するほむらは、いったいどのような願いによってそうなるに至ったのか。
興味は尽きないが、寡黙な彼女が語ることは、いまだないままだ。
ただ、そんな彼女の目的の一端は、今回で明らかとなった。
杏子との会話のなかで吐き出された「ワルプルギスの夜」という単語。
欧州においては初夏に行なわれる行事の名前であるが、この場合、言い伝えのひとつにその真意が隠されていると見るべきだろう。
すなわち、「魔女の夜」という意味合いである。
ほむらは言う。「そいつさえ倒せたら、わたしはこの街を出て行く」と。
「ワルプルギスの夜」に現れるという、杏子をして「手強い」と言わしめる何者かを倒すこと。それがほむらの目的だと思われる。
気になるのは、それとまどかとの関連性だ。
ほむらがまどかを魔法少女にしないために動いているのは、これまでの行動から明らかである。
だが、その理由についてはなにもわかっていない。
知らされているのは、「すべてを失うことになる」という謎に満ちた一言のみだ。
「ワルプルギスの夜」と、「鹿目まどかの契約」。
このふたつに、暁美ほむらという人物が深い関わりを見せている以上、繋がりがないとは到底考えられない。
何らかの理由により、ほむらは「鹿目まどかの契約を阻止」し、なおかつ「ワルプルギスの夜に現れる何者かを打倒」しなければならないのだろう。
この物語において、そのふたつの達成が、ほむらのゴールラインになるのだと思われる。
そして、彼女がどういった目的を抱えていようとも、周囲がそれを理解することはない。
なぜなら彼女は、必要最低限の説明以外は一切なにも語ろうとしないからだ。
意思の疎通が図れなければ、目的に理解を示すどころではない。誤解が生じ、それが敵意にまで発展するのも無理からぬことと言える。
美樹さやかのようにだ。
さやかの言は正しい。
杏子もほむらも、自分の目的だけを見すえてひどく利己的な生き方をしている。
そのためならば「手段を選ばない」と平気で言い放つほどだ。
それは、他者のために魔法少女となり、他者を救うために戦おうとするさやかとは、決して相容れない考え方である。
だからさやかは、杏子を敵視し、ほむらを危険視する。
そこにはまどかの理解不理解など、まるで関係がない。
だからこそさやかは、杏子と対立し、ほむらを危険視し、まどかとも道を違えていく。
目的が違うから、相反してしまう。
そして、それは恐らく、まどかの言うように「話し合い」をしたところで、楽に解決できるものではないだろう。
既に一度殺し合いをしてしまったから…というわけではない。
そうしなければならないほどに譲れないものが杏子とさやかにはあり、ほむらはそれを止めず、まどかは理解しないからだ。
齟齬がここまで大きくなってしまった以上、取り繕うのさえ簡単なことではないはずだ。
しかし、そこに大きな転機が訪れる。
事実とは、強力なものだ。
推論や憶測には決してない、絶対的な説得力がある。
受け入れざるを得ない重さがある。
少女たちの抱える事情など、一瞬で薙ぎ払ってしまうほどに。
ソウルジェムの本質。
肉体はただの端末に過ぎず、ソウルジェムこそが本体。魂の器。
杏子すらも、その事実を知らなかった。
“自分たちが既に人間ではなくなっていること”を。
おそらく、さやかの異変に反応を示さず、投げ捨てられたソウルジェムを追い掛けに行ったほむらだけは、そのことを知っていたのだと思われる。
そして、彼女以外のほとんどの魔法少女は、杏子のようにこの事実を知らないでいるのだろう。
このあまりにも重い事実を淡々と語るキュゥべえには、悔恨も憐れみもない。それどころか一切の感情がない。
効率のいいシステムを受け入れられない人間に対し、わけがわからないとこぼすだけだ。
つまるところ彼は人間ではなく、人間の倫理に縛られた人物でもなく、「魔法少女との契約を取り結ぶ」という、ただそれだけのために生きる存在なのだろう。
善か悪かすら関係なく、目的のために最良を目指すだけの、ロボットのような存在。
機械的な無表情も、情動を廃したかのような淡々とした語り口も、そんなモノであるのだ思えば、むしろ自然にも見えてくる。
この絶望的で決定的な事実が知らしめられたことによって、魔法少女たちの辿る道筋は、ますます混迷をきわめるだろうと予想される。
ここから先、いったいどのような展開を迎えるのか、憶測すらも難しい。
ちょうど半分、折り返し地点。
残りの半分が待ち遠しくも、恐ろしくもある。

魔法少女まどか☆マギカ エンディングテーマ Magia(アニメ盤)
ソウルジェムから吸える穢れの総量に制限があるのも、この理由があったからなのだろう。
元より「魔女の卵」と称されていたから、さもありなんといったところだ。
そして、穢れたグリーフシードはキュゥべえの餌となる。
食べられたあとのグリーフシードが、どうなるのかはわからない。
浄化されるのかもしれないし、消滅してしまうのかもしれない。
「願いを叶える」なんて力があるのだから、そのくらいのことができても不思議はない。
けれどどちらかというなら、キュゥべえが「穢れたグリーフシードを餌にできる存在」と考える方が、状況から考えると自然かもしれない。
杏子が5話で語った食物連鎖の話が、妙な不気味さを帯びてくる。
その杏子とさやかの戦いに、前回の最後で割って入ったほむらだが、どうやら彼女の持つ特性は、やはり空間もしくは時間を操作する類のものであるようだ。
1話の冒頭、3話の魔女戦、5話での乱入。
そして今回。
たとえば「ある半径内の地点AとBを入れ替える」というような能力か、もしくは短期の時間停止であると考えたなら、すべて説明がつく。
となると気になるのは、彼女が「なにを願ったか」だ。
魔法少女の持つ特性が、願いの方向性によって決まることは、5話で明言されている。
祈りの願いによって魔法少女となったさやかは、全治3ヶ月相当と見られた怪我をわずか数秒で完治させるという、桁外れの回復力を獲得するに至った。
「空間または時間を操る」という、戦闘に際してはこれ以上ないほど強力な特性を有するほむらは、いったいどのような願いによってそうなるに至ったのか。
興味は尽きないが、寡黙な彼女が語ることは、いまだないままだ。
ただ、そんな彼女の目的の一端は、今回で明らかとなった。
杏子との会話のなかで吐き出された「ワルプルギスの夜」という単語。
欧州においては初夏に行なわれる行事の名前であるが、この場合、言い伝えのひとつにその真意が隠されていると見るべきだろう。
すなわち、「魔女の夜」という意味合いである。
ほむらは言う。「そいつさえ倒せたら、わたしはこの街を出て行く」と。
「ワルプルギスの夜」に現れるという、杏子をして「手強い」と言わしめる何者かを倒すこと。それがほむらの目的だと思われる。
気になるのは、それとまどかとの関連性だ。
ほむらがまどかを魔法少女にしないために動いているのは、これまでの行動から明らかである。
だが、その理由についてはなにもわかっていない。
知らされているのは、「すべてを失うことになる」という謎に満ちた一言のみだ。
「ワルプルギスの夜」と、「鹿目まどかの契約」。
このふたつに、暁美ほむらという人物が深い関わりを見せている以上、繋がりがないとは到底考えられない。
何らかの理由により、ほむらは「鹿目まどかの契約を阻止」し、なおかつ「ワルプルギスの夜に現れる何者かを打倒」しなければならないのだろう。
この物語において、そのふたつの達成が、ほむらのゴールラインになるのだと思われる。
そして、彼女がどういった目的を抱えていようとも、周囲がそれを理解することはない。
なぜなら彼女は、必要最低限の説明以外は一切なにも語ろうとしないからだ。
意思の疎通が図れなければ、目的に理解を示すどころではない。誤解が生じ、それが敵意にまで発展するのも無理からぬことと言える。
美樹さやかのようにだ。
さやかの言は正しい。
杏子もほむらも、自分の目的だけを見すえてひどく利己的な生き方をしている。
そのためならば「手段を選ばない」と平気で言い放つほどだ。
それは、他者のために魔法少女となり、他者を救うために戦おうとするさやかとは、決して相容れない考え方である。
だからさやかは、杏子を敵視し、ほむらを危険視する。
そこにはまどかの理解不理解など、まるで関係がない。
だからこそさやかは、杏子と対立し、ほむらを危険視し、まどかとも道を違えていく。
目的が違うから、相反してしまう。
そして、それは恐らく、まどかの言うように「話し合い」をしたところで、楽に解決できるものではないだろう。
既に一度殺し合いをしてしまったから…というわけではない。
そうしなければならないほどに譲れないものが杏子とさやかにはあり、ほむらはそれを止めず、まどかは理解しないからだ。
齟齬がここまで大きくなってしまった以上、取り繕うのさえ簡単なことではないはずだ。
しかし、そこに大きな転機が訪れる。
事実とは、強力なものだ。
推論や憶測には決してない、絶対的な説得力がある。
受け入れざるを得ない重さがある。
少女たちの抱える事情など、一瞬で薙ぎ払ってしまうほどに。
ソウルジェムの本質。
肉体はただの端末に過ぎず、ソウルジェムこそが本体。魂の器。
杏子すらも、その事実を知らなかった。
“自分たちが既に人間ではなくなっていること”を。
おそらく、さやかの異変に反応を示さず、投げ捨てられたソウルジェムを追い掛けに行ったほむらだけは、そのことを知っていたのだと思われる。
そして、彼女以外のほとんどの魔法少女は、杏子のようにこの事実を知らないでいるのだろう。
このあまりにも重い事実を淡々と語るキュゥべえには、悔恨も憐れみもない。それどころか一切の感情がない。
効率のいいシステムを受け入れられない人間に対し、わけがわからないとこぼすだけだ。
つまるところ彼は人間ではなく、人間の倫理に縛られた人物でもなく、「魔法少女との契約を取り結ぶ」という、ただそれだけのために生きる存在なのだろう。
善か悪かすら関係なく、目的のために最良を目指すだけの、ロボットのような存在。
機械的な無表情も、情動を廃したかのような淡々とした語り口も、そんなモノであるのだ思えば、むしろ自然にも見えてくる。
この絶望的で決定的な事実が知らしめられたことによって、魔法少女たちの辿る道筋は、ますます混迷をきわめるだろうと予想される。
ここから先、いったいどのような展開を迎えるのか、憶測すらも難しい。
ちょうど半分、折り返し地点。
残りの半分が待ち遠しくも、恐ろしくもある。

魔法少女まどか☆マギカ エンディングテーマ Magia(アニメ盤)
テーマ : 魔法少女まどか★マギカ
ジャンル : アニメ・コミック
まどか☆マギカのサントラ
サントラは、BD/DVDの初回版特典になるようだ。
http://www.madoka-magica.com/bddvd/02.html

化物語のサントラが、BD/DVDの特典になっていたという話を事前に聞いていたので、こういう展開も予想の範疇だ。
あと気になるのは、作画の修正がどの程度入るのかというあたり。
作画のミスなのか、そうでないのかいまいちわからない箇所が本編中に散見されるので、そういったところは商品化に際し、きっちり直してほしいと思う。
![魔法少女まどか☆マギカ 2 【完全生産限定版】 [Blu-ray]](http://rcm-images.amazon.com/images/P/B004L7A7WO.09.MZZZZZZZ.jpg)
魔法少女まどか☆マギカ 2 【完全生産限定版】 [Blu-ray]
http://www.madoka-magica.com/bddvd/02.html

化物語のサントラが、BD/DVDの特典になっていたという話を事前に聞いていたので、こういう展開も予想の範疇だ。
あと気になるのは、作画の修正がどの程度入るのかというあたり。
作画のミスなのか、そうでないのかいまいちわからない箇所が本編中に散見されるので、そういったところは商品化に際し、きっちり直してほしいと思う。
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魔法少女まどか☆マギカ 2 【完全生産限定版】 [Blu-ray]
テーマ : 魔法少女まどか★マギカ
ジャンル : アニメ・コミック
魔法少女まどか☆マギカの5話を見た
これまで謎に包まれていた、キュゥべえとの契約の場面。
舞い上がる花弁の演出にぞくぞくした。
一方で、さやかの無理してる感ありありな様子が痛ましい。
中学生の身で、命の危険を伴う戦いに身を投じるなど、耐えがたいほどの恐怖だろう。
たとえ願いが叶ったうえでの結果であったとしても、恐いと思う気持ちは止めようがない。
だから、まどかを責める気にもなれない。
彼女の態度は、人の力のみをあてにし、自分を勘定に入れない不誠実なもの。そのように受け取ることも、確かにできる。
だが、目の前で魔法少女の顛末を、すべて余すところなく見てしまった彼女に、恐がるなと責めることが、いったい誰にできるだろうか。
断言してもいい。まどかを責められる者など、この地上にひとりとていない。
もしいるとするなら、それは祈りを捧げ、命を賭けて戦う宿命を負った、魔法少女だけである。
その魔法少女であるさやかとほむらが彼女を責めない以上、まどかに責められる謂れは一切ない。
しかし、それでも、まどか自身が己を責めてしまうことだけは、どうにもできない。
その優しさが彼女の美点であり、同時に弱点でもある。かつてほむらが言っていたようにだ。
いつか彼女は、その優しさがために身を滅ぼしてしまうのかもしれない。
ゆえに、ほむらはまどかを気にかけているのだろう。キュゥべえにさえ把握し得ない、彼女のみが持つ目的のために。
今回キュゥべえが、ほむらを「極めつけのイレギュラー」と明言したことによって、彼女の立ち位置が、ある程度はっきりした。
どこにも、誰にも属さない、己の目的のためだけに戦う魔法少女。
マミさんやさやかのように人のためではなく、ほかの多くの魔法少女のようにグリーフシードを得るためという利己的な欲求に従うわけでもない。
ほむらの明瞭としない目的意識は、確かに極めつけと称するにふさわしい異分子なのだろう。
そして、「ほかの多くの魔法少女」の代表である、佐倉杏子。
実利のみを追求し、人の安全にまるで関心を払わない彼女の態度は、既存の魔法少女の概念から大きく逸脱するものだ。
だが、魔法少女の戦死が当然のこととされているあの世界では、彼女のスタンスの方がより自然なものとも思えてくる。
暁美ほむらはこう言った。
「あの契約は、たったひとつの希望と引き替えに、すべてを諦めるってことだから」と。
それが事実であるなら、魔法少女は魔法少女であること以外のすべてのアイデンティティを、契約の際に失っている。
ならば、魔法少女であり続けるために、他者の犠牲をいとわずグリーフシードを求めることも、倫理にもとることを別にすれば、理に適った欲求と言える。
そう考えると、在りし日のマミさんは、そして彼女の遺志を継いださやかは、確かに魔法少女のなかでも珍しい存在であるのかもしれない。
だからこそ、二者の対立は避けられない。
重きを置くものが、もっとシンプルに言えば利害が、まるで噛み合わないからだ。
美樹さやかと佐倉杏子。
彼女たちは、その立ち位置が決定的に異なるがゆえに、主張を相手に理解してもらうことが決してできない。
話し合いによる問題解決が不可能であるならば、残された手段はひとつのみ。
力によって、己が意思を押し通す。つまりは、戦うしかない。
こう思うのはもう何度目になるか知れないけれど、「魔法少女」という言葉からはあまりにもかけ離れた世界観だ。
魔法少女といっても、彼女たちはたまたま力を得てしまっただけの、年相応の子供に過ぎず、ゆえに情緒の面でも年相応であるのは、むしろ自然なことだ。
彼女たちは、超越者でも何でもなく、少しばかり特異なだけの、ただの人間に過ぎないのだから。
ただの人間だから間違いを犯す。
力に振り回される。
あるいは、力を振り回してしまう。
そういう生々しいまでの人間らしさをあえて取り払わず、残したうえで魔法少女としたあたりが、この作品のもっとも異質な点と言えるのかもしれない。
舞い上がる花弁の演出にぞくぞくした。
一方で、さやかの無理してる感ありありな様子が痛ましい。
中学生の身で、命の危険を伴う戦いに身を投じるなど、耐えがたいほどの恐怖だろう。
たとえ願いが叶ったうえでの結果であったとしても、恐いと思う気持ちは止めようがない。
だから、まどかを責める気にもなれない。
彼女の態度は、人の力のみをあてにし、自分を勘定に入れない不誠実なもの。そのように受け取ることも、確かにできる。
だが、目の前で魔法少女の顛末を、すべて余すところなく見てしまった彼女に、恐がるなと責めることが、いったい誰にできるだろうか。
断言してもいい。まどかを責められる者など、この地上にひとりとていない。
もしいるとするなら、それは祈りを捧げ、命を賭けて戦う宿命を負った、魔法少女だけである。
その魔法少女であるさやかとほむらが彼女を責めない以上、まどかに責められる謂れは一切ない。
しかし、それでも、まどか自身が己を責めてしまうことだけは、どうにもできない。
その優しさが彼女の美点であり、同時に弱点でもある。かつてほむらが言っていたようにだ。
いつか彼女は、その優しさがために身を滅ぼしてしまうのかもしれない。
ゆえに、ほむらはまどかを気にかけているのだろう。キュゥべえにさえ把握し得ない、彼女のみが持つ目的のために。
今回キュゥべえが、ほむらを「極めつけのイレギュラー」と明言したことによって、彼女の立ち位置が、ある程度はっきりした。
どこにも、誰にも属さない、己の目的のためだけに戦う魔法少女。
マミさんやさやかのように人のためではなく、ほかの多くの魔法少女のようにグリーフシードを得るためという利己的な欲求に従うわけでもない。
ほむらの明瞭としない目的意識は、確かに極めつけと称するにふさわしい異分子なのだろう。
そして、「ほかの多くの魔法少女」の代表である、佐倉杏子。
実利のみを追求し、人の安全にまるで関心を払わない彼女の態度は、既存の魔法少女の概念から大きく逸脱するものだ。
だが、魔法少女の戦死が当然のこととされているあの世界では、彼女のスタンスの方がより自然なものとも思えてくる。
暁美ほむらはこう言った。
「あの契約は、たったひとつの希望と引き替えに、すべてを諦めるってことだから」と。
それが事実であるなら、魔法少女は魔法少女であること以外のすべてのアイデンティティを、契約の際に失っている。
ならば、魔法少女であり続けるために、他者の犠牲をいとわずグリーフシードを求めることも、倫理にもとることを別にすれば、理に適った欲求と言える。
そう考えると、在りし日のマミさんは、そして彼女の遺志を継いださやかは、確かに魔法少女のなかでも珍しい存在であるのかもしれない。
だからこそ、二者の対立は避けられない。
重きを置くものが、もっとシンプルに言えば利害が、まるで噛み合わないからだ。
美樹さやかと佐倉杏子。
彼女たちは、その立ち位置が決定的に異なるがゆえに、主張を相手に理解してもらうことが決してできない。
話し合いによる問題解決が不可能であるならば、残された手段はひとつのみ。
力によって、己が意思を押し通す。つまりは、戦うしかない。
こう思うのはもう何度目になるか知れないけれど、「魔法少女」という言葉からはあまりにもかけ離れた世界観だ。
魔法少女といっても、彼女たちはたまたま力を得てしまっただけの、年相応の子供に過ぎず、ゆえに情緒の面でも年相応であるのは、むしろ自然なことだ。
彼女たちは、超越者でも何でもなく、少しばかり特異なだけの、ただの人間に過ぎないのだから。
ただの人間だから間違いを犯す。
力に振り回される。
あるいは、力を振り回してしまう。
そういう生々しいまでの人間らしさをあえて取り払わず、残したうえで魔法少女としたあたりが、この作品のもっとも異質な点と言えるのかもしれない。

テーマ : 魔法少女まどか★マギカ
ジャンル : アニメ・コミック
魔法少女まどか☆マギカの第4話を見た
「ベテラン」という言葉の意味。
これまでに見てきた「数えるのを諦めるほどの人の死」。
たとえ「忘れ去られても」仕方のないこと。
記憶にとどめてもらえるだけ巴マミは幸せ。「羨ましいほど」に。
暁美ほむらの言葉の数々は、彼女がかつて誰かに忘れ去られてしまったことを示唆している。
いったい誰から? 答えはおそらく、考えるまでもない。
やはり彼女は、鹿目まどかと、かつて交流のあった人物なのだろう。
そのことをどうしてまどかは忘れ去ってしまったのか、理由はいまだわからない。
推察するための材料には事欠かないが、それら自体がミスリードかもしれず。
ほむら自身が黙して語らない、あるいは“語れない”以上、すべては憶測の範疇を出ず、真実は闇のなかである。
そして、やはり、こういう方向性しかないよなあ、と。
このアニメ、というより企画の構造的に、キャラクターの死によってインパクトを与えられるのは一度きりだ。
その後は、誰がどのように死のうとも、いわゆる想定の範囲内になってしまう。「誰が死んでもおかしくないアニメ」であることが周知されてしまっているからだ。
だから、視聴者に衝撃を与え続けようと考えるなら、今度は別方向からのアプローチが必要となってくる。
脚本担当が虚淵玄氏であることを鑑みたうえで、それがどういったものになるかを予想してみると、答えは自ずと限られる。
キャラクターの死によって、世界の物理的な厳しさを思い知らせた後は。
キャラクターの苦悩によって、精神的な痛みを与えてくるものと、相場が決まっている。
そして、あのタイミングでのキュゥべえの登場。
見計らったかのような。
“待ちかねていたかのような”。
例えば、願いを持つ者の意思を察知して、素早くその場へ馳せ参じたというような想像も、できないことはない。
神出鬼没でテレパシー能力を持つキュゥべえならば、そうしたことができたとしても、決して不思議はない。
でも、しかし。
そうだとは、とても思えない。それが今の正直な気持ちだ。
さやかの語った「奇跡も、魔法も、あるんだよ」という言葉が、痛烈な皮肉のようにも思えてきてしまう。
この後の展開も、おおよそ予想できる。
労働には、それに見合うだけの対価が支払われるべきだけれど、現実は必ずしもそうではない。
働いたからといって、手伝ったからといって。
優しくしたからといって。
身を捧げたからといって。
それが必ず報われるとは限らないのだ。
なんて、重い、アニメなのか…!
魔法少女もののシナリオはポジティブでなければならないと、法律で決まっているわけではない。シナリオがどういったものになるのかは、作り手のさじ加減ひとつで変わってくる。
実際、アニメ以外の媒体では、意図してお約束を外した魔法少女ものも時折見られる。
だが、アニメというきわめて多人数が触れることになる媒体で、ここまで尖った作風というのはかなり珍しい。
その是非はすべてを見るまで問えないが、今の段階でも意欲的であることに文句のつけようはないし、個人的には楽しませてももらっている。
願わくば、それが最後まで貫かれることを。
これまでに見てきた「数えるのを諦めるほどの人の死」。
たとえ「忘れ去られても」仕方のないこと。
記憶にとどめてもらえるだけ巴マミは幸せ。「羨ましいほど」に。
暁美ほむらの言葉の数々は、彼女がかつて誰かに忘れ去られてしまったことを示唆している。
いったい誰から? 答えはおそらく、考えるまでもない。
やはり彼女は、鹿目まどかと、かつて交流のあった人物なのだろう。
そのことをどうしてまどかは忘れ去ってしまったのか、理由はいまだわからない。
推察するための材料には事欠かないが、それら自体がミスリードかもしれず。
ほむら自身が黙して語らない、あるいは“語れない”以上、すべては憶測の範疇を出ず、真実は闇のなかである。
そして、やはり、こういう方向性しかないよなあ、と。
このアニメ、というより企画の構造的に、キャラクターの死によってインパクトを与えられるのは一度きりだ。
その後は、誰がどのように死のうとも、いわゆる想定の範囲内になってしまう。「誰が死んでもおかしくないアニメ」であることが周知されてしまっているからだ。
だから、視聴者に衝撃を与え続けようと考えるなら、今度は別方向からのアプローチが必要となってくる。
脚本担当が虚淵玄氏であることを鑑みたうえで、それがどういったものになるかを予想してみると、答えは自ずと限られる。
キャラクターの死によって、世界の物理的な厳しさを思い知らせた後は。
キャラクターの苦悩によって、精神的な痛みを与えてくるものと、相場が決まっている。
そして、あのタイミングでのキュゥべえの登場。
見計らったかのような。
“待ちかねていたかのような”。
例えば、願いを持つ者の意思を察知して、素早くその場へ馳せ参じたというような想像も、できないことはない。
神出鬼没でテレパシー能力を持つキュゥべえならば、そうしたことができたとしても、決して不思議はない。
でも、しかし。
そうだとは、とても思えない。それが今の正直な気持ちだ。
さやかの語った「奇跡も、魔法も、あるんだよ」という言葉が、痛烈な皮肉のようにも思えてきてしまう。
この後の展開も、おおよそ予想できる。
労働には、それに見合うだけの対価が支払われるべきだけれど、現実は必ずしもそうではない。
働いたからといって、手伝ったからといって。
優しくしたからといって。
身を捧げたからといって。
それが必ず報われるとは限らないのだ。
なんて、重い、アニメなのか…!
魔法少女もののシナリオはポジティブでなければならないと、法律で決まっているわけではない。シナリオがどういったものになるのかは、作り手のさじ加減ひとつで変わってくる。
実際、アニメ以外の媒体では、意図してお約束を外した魔法少女ものも時折見られる。
だが、アニメというきわめて多人数が触れることになる媒体で、ここまで尖った作風というのはかなり珍しい。
その是非はすべてを見るまで問えないが、今の段階でも意欲的であることに文句のつけようはないし、個人的には楽しませてももらっている。
願わくば、それが最後まで貫かれることを。

テーマ : 魔法少女まどか★マギカ
ジャンル : アニメ・コミック